徒然なるままに-眠れない欧州線の機内にて

 1988年に初めてソウルを訪れた。街にはソウルオリンピック開催間際の活気があったが、市内を散策中に警察(機動隊)と学生のデモ隊との衝突に遭遇し、かつての日本もそうであったようにこれから成熟していく国であることを感じさせてくれた。宿泊したロッテホテルではロビーは日本人と韓国の若い女性のペアーで溢れていた。噂には聞いていたがキーセンツアーで来ている日本人と(貧困ゆえに?)田舎から出て来た若い女性たちがさも恋人同士のように振舞っていたことに非常に驚いた。また、海外に出て羽目を外す日本人のモラルの低さを恥ずかしく情けなく思ったのと同時に、これが韓国の首都で公然としかも日常的に繰り広げられているということに無情さも感じた。

 

 訪問の目的は観光もあったが、父の友人に会うことも目的の一つであった。彼は東大阪の町工場で数年働いて’87年に韓国に帰国したのだが、その町工場で私の父と知り合いよく自宅に食事に招いたりしていた。私も彼を京都観光に案内したりと、いわゆる家族ぐるみの付き合いともなっていた。ソウルに着いてまず彼の家に電話をして食事に誘う算段であったが、あいにく彼は留守のようでおまけに彼の家族は日本は勿論英語も全くという有様、こちらも韓国語は全く使えなかったので途方に暮れながらも、電話口で「ロッテホテル。○○(私の名前)。ロッテホテル。○○。」を連呼して電話を切ったのだが、その後彼からホテルにコンタクトがあり無事に再開を果たすことができた。彼とのコンタクトの場所はロッテホテルのロビー、やるせない気持ちになったのをいまでも思い出す。彼とは明洞にある彼オススメ(?)のサンゲタン屋で一緒に食事をした。

 

 最初の訪問から、いろいろな縁(成均館大学およびそのOB)がありソウルには年に1度は訪問することとなり大勢の韓国の友人ができた。また訪問するたびに徐々にホテルのロビーで見かける鼻の下を長くした日本人は少なくなり、2002年の最後の訪問では全くその姿を見かけることはなかった。その頃の韓国はMF Crisisと呼ばれた金融危機もあったようだが、確実に国は豊かになり友人の多くが高価な車(乗せてもらったのは大型SUVだった)に乗り、しばしばホテルと大学の間を往復してくれた。またある時は聖公会のミサ(礼拝?)に招かれたこともあったが、長老たちは私を快く受け入れ、日本に対して不満を聞くことはなかった。これは私にとって大きな驚きでもあった。今でこそ日韓問題は両国間の壁として両国民はそれを乗り越えられないでいるが、その当時はそんな壁の存在すら感じなかったものだ。

 

2002年以降は仕事の都合で韓国を訪問する機会がなくなったのだが、同時に韓国と日本の関係に大きな溝ができ始めたのもこの頃だったように思う。音信不通となった友人も多いのだが、日韓の関係がこれほど悪化した中で彼らはいま何を感じているのだろうか。今会ったとしたらあの時のように何のわだかまりもなく酒を組みかわせるだろうか。慰安婦問題など話題にすら出たことはなかったが、慰安婦像が至る所に設置されソウルの市バスにも少女像が座っている有様。事実がどうであったかを冷静に確認する動きもなく、ただただメディアを含む一部の勢力による日本を貶めるプロパガンダが蔓延している。いつになればこの闇は晴れるのだろう。

 

 一昨年は朴槿恵が弾劾で大統領の座を追われ、親北の文大統領が誕生した。裁判所や政府の奥深くに北の影響が現れ始め、国際世界が注目する中で国として約束したことも簡単に反故にし、この後に及んで北の支援としてお金まで出そうとしている。北のロケットマンは米国や日本に対して過激な発言をやめず、核と弾道ミサイルの開発に精を出している。北が核を使う可能性は未知数であるものの、これを放置すれば確実に闇マーケットに核が流れ世界は破滅へと導かれる。こんな状態は長く続けてはいけない。病を放置すれば世界が死に至るということだ。