宗教団体・宗教家の裁き方

 7月にはいってオーム真理教の麻原彰晃教祖含む13名の元教団幹部に対する死刑が執行された。この死刑執行に対してEU(方面)から批判の声が上がっている。また死刑囚を支援する団体や人権擁護団体からも同様に強い批判と疑問が投げかけられた。この機に乗じて政権批判と繋げるTwitterなども散見され、この後暫くはいろんな論争が続くことだろう。

 そもそも死刑制度というものは法で決められたものである以上、法に則り粛々と進められてよいものである。もちろん死刑囚13人それぞれに事情・背景があり、例えば「地下鉄サリン事件で唯一死者が出なかった車両を担当したから死刑はそぐわない」など、担当弁護士の思いはあるかもしれないが、最高裁の判決が出た以上それに従うことになんら問題はない。これが法であり、法治国家なのだ。

 

 しかし私に釈然としない点が一つだけある。それは彼ら、特に麻原師がこの死刑に納得していないという点である。彼の思いは「不浄な世を浄化することが自分の使命であり、その手段として殺人やテロも肯定される」というものだ。何を馬鹿な・・・、という批判を受けることを覚悟で言うが、もし仮に「この世が本当に不浄であり、彼の行動により世の中を浄化できる」のであれば、彼の行為はある意味肯定されて然るべきなのかもしれない。いわゆるこれが宗教に紐づいた「教義」というものだ。オーム真理教を含むこの世にあるカルト集団というものは似たり寄ったりで、この種の教義を持っている。彼らは「正義」の名の下に殺人やテロを行っているのである。

 歴史上宗教というものは多くの殺人を犯してきた。例えばアメリカ大陸で行われたインディアンの大虐殺はイエス・キリストの名によって正当化された(行われた)行為である。インカにおける大虐殺・略奪、アフリカの奴隷狩り、十字軍によるイスラム教徒征伐(虐殺)なども同じ。いわゆるキリスト教徒が異教徒に対して行う行為は全て正当化されるというもの。もちろん現在のキリスト教に継承されたものではないが、「キリストを信じる信仰によってのみ罪が許され、永遠の命が約束される」という考えが受け継がれていることは、過去の教義の名残りで「信じないものは異教徒」という考えなのであろう。

 

 ここでオームの話に戻る。オームの一連の裁判からメディアは「一連の事件を弟子のせいにして、最後はひたすら沈黙の砦の中に逃げ込んだ」と評した。否、彼は法廷で騒いで最初に退廷させられた時、

「私はあなた方に従う魂じゃない」

「これは裁判じゃない。劇場だ。」

と言ってのけている。また弟子への説法の中で

「(自分は)最終解脱(した)最高の存在である。」

「悪業を積んでいる者を成就者(=自分)が殺して天界に上昇させることは許される。自分に抗う人々を殺すのは殺人ではなく救済だ。」

これらの言葉から彼が正義の名の下に異教徒に対して殺人やテロを行っていたことが容易に判断できるというものだ。裁判でだんまりを決め込んだのは、彼の正義(教義)について誰も間違いを指摘せず、目の前に起こった殺人テロに対してのみ裁判が繰り広げられた所以である。彼から言わせればこれは異教徒からの攻撃・弾圧ぐらいにしか思っていなかったのかも知れない。

 オームの裁判は「殺人は悪」ということが前提に行われているが、ここに大きな間違いがある。正義の名の下に行われる殺人は悪ではないのだ。例えば、正当防衛で殺人することは悪ではない。裁判で死刑判決を受けた囚人に死刑を執行することは悪ではない。戦争において勝者が行う殺人は悪ではない。だからこそ、オームの裁判では、麻原師の教義の間違いをしっかりと語る必要があったのではないか。宗教用語(仏教用語?)でいうならば、破折する必要があった。この破折、つまり教義的な間違いを指摘することこそ、宗教を裁く場合に必要となる。つまり間違った教義に基づいて行う殺人・テロは悪なのである。

 

 それではオーム真理教の教義における間違いとはなんだったのか?

相対的な真理ではなく「絶対真理」に基づき論理展開を進め、間違いを明確化するということなのだが、そもそもの「絶対真理」とはなにか。仏教では「一切空」という考えがあるが、これは全ての物事には善悪のはない、というもの。